2007年9月28日金曜日

DDJ

チェンジビジョンの平鍋さんの記事がDDJ(Dr. Dobb's Journal)に掲載されたそうだ。

すばらしい!

DDJにTRICHORDの記事でました!

http://www.ddj.com/architect/201807863

DDJは世界最古のコンピュータ/プログラミングの専門誌として、知る人ぞ知る雑誌。創刊当時のDDJには、Appleのスティーブ・ウォズニアックの手書きの記事とかが掲載されていた。GNUのリチャード・ストールマンが最初のGNU Manifestoを寄稿したのもDDJだ。

ちなみに平鍋さんがはじめて書いた記事は、DDJJ(Dr. Dobb's Journal Japan)に掲載されたそうだ。

懐かしいので、ちょっと裏話を書いておく。

私がアスキーに来る前、まだ翔泳社にいた頃、月刊プログラマーズ・ページという翔泳社初の月刊誌の創刊に副編集長として参加した。

プログラマーズ・ページ創刊の準備を進めていたとき、米国の雑誌と提携して翻訳記事を入れたいという意見が出て、私が米国の雑誌の中から適切なものを選ぶことになった。私が選んだのはもちろん、DDJ。一応、当時米国で刊行されていたプログラミング雑誌を一通り見たうえでの決断だったが、やはりDDJは別格だと思っていたので、迷わず選んだ。

でも、残念なことにDDJ側から提携の話は断られてしまった。たしか、他の日本の出版社との契約がまだ残っているというのが理由だったと思う。

結局、プログラマーズ・ページはどの米国雑誌とも提携せず、独自の記事のみで刊行された。

創刊からそろそろ1年になろうかという頃、DDJから「提携できるようになったけど、どうする?」という連絡がきた。これを逃す手はない! 編集長と相談して、DDJの一部の記事を翻訳掲載するのではなく、プログラマーズ・ページそのものをDDJ日本語版(DDJJ)としてリニューアルすることになった。

米国から山ほど送られてきたDDJを読んでは、日本語版に掲載する記事を選ぶのは実に楽しい作業だった。当時のDDJには、Bill Jolitzが書いていたPCにBSDを移植するという連載記事があった。386BSDを作る話だ。

この記事をぜひ日本語版に載せたいと思ったのだが、Jolitzは記事の版権を自分が持っているので直接本人に交渉したうえで別料金を払ってくれと言われて断念した。このときはほんとうに悔しかった。

数年後、アスキーにいた私のところにJolitzが386BSDの本を書いているという情報が入った。DDJJのときの悔しさを覚えていたため、すぐさま版権を取得し、『386BSDカーネルソースコードの秘密』というタイトルで翻訳・出版した。このときばかりは、なんだか不思議な縁を感じた。

ちなみにこの386BSDの本は、シリーズとして何冊も刊行される予定だったのだが、Jolitzが原稿を書かないために1冊しか刊行されていない。

憧れのDDJの日本語版を作るというのは、私にとってとても魅力的な仕事だったのだが、翔泳社との間にいろいろあってアスキーに移ることになった。結局、DDJJ創刊号の準備をしたのが、私の翔泳社での最後の仕事になったわけだ。今では、そのDDJJももうない。

この世は無常だ。

2 件のコメント:

  1. DDJJ 懐かしいです。
    こすずめさん、というハンドルの編集の方に当時お話をしたような。。。うろ覚えですが。

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  2. こすずめさんは、プログラマーズ・ページ創刊時のメンバーの一人で、後にDDJJの編集長になった女性ですね。
    今はフリーで活躍されているはずです。懐かしいなぁ。

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