TeXは、コンピュータサイエンティストであるDonald E. Knuthが自著である"The Art of Computer Programming"執筆時に、当時始まったばかりだった写植システムの組版の汚さに腹を立てて、自らの本のために作り上げたコンピュータ上で動作する組版システムだ。アスキーでは、このTeXを日本語に対応させたアスキー日本語TeXと呼ばれるものを作って公開している。今でも多くのユーザーがアスキー日本語TeXを利用しているし、社内においてもEWBという独自のDTPシステムの組版エンジンとして活用している。
ということなのだが、ここで書いておきたいのはTeXの中身の話ではなく、発音(読み方)の話だ。日本人には、TeXを「テフ」と発音する人が少なからずいる。日本語のWikipediaにもまことしやかに「発音は、「テックス」ではなくギリシャ語読みの [tex](「テフ」)が正しい」などと書かれている。しかしだ、TeXの発音は「テック」だ。「テフ」じゃない。
TeXを「テフ」と発音する人たちの根拠になっているのが、Knuthの著書であり、翻訳書をアスキーが出版した「TeXブック
」の第1章冒頭にあるTeXの発音に関するくだりだ。そこにはたしかに「TeXを知っている人は、TeXのXをxとは発音せず、ギリシャ語のchiのように発音する」と書かれている。ここから、上記のWikipediaの記述のような、「テフ」が正しいという説が出てきたわけだ。しかし、これを最初に言い出したのはいったいだれなんだろう?
アスキーが「TeXブック」の初版を刊行したのが1989年10月21日、改訂版を出したのが1992年8月1日、私がアスキーに入社したのが1992年8月末なので、私自身は「TeXブック」の編集・出版にはまったく関わっていない。ただし、「TeXブック」はちゃんと読んでいたし、発音に関するくだりは気になっていた。特に、アスキー社内のほとんどの人間が「テック」と発音しているのに、なぜか学生など、外の人間が「テフ」と発音するのが不思議でしょうがなかった。あるとき、アスキー社内の飲み会の席で、「どうして外の人達はTeXをテフと発音するんでしょうね?」と聞いてみたところ、先輩編集者が「あれは俺達が悪いんだよ。ちゃんとテックって書いておかなかったからさぁ、しょうがねぇよなぁ」と言って大笑いするのを私は聞いた。少なくともアスキーの人間は、TeXが「テック」だと認識していたわけだ。
さて、1993年の春頃だったと思うが、当時担当していたKnuthの著書「文芸的プログラミング
」("Literate Programming
")の組版指定についてKnuth自身に質問をするため、スタンフォード大学にKnuthを訪ねたことがある。今となっては贅沢きわまりない話だけど、当時のアスキーはこういうことをやらせてくれた。このときの会見は1時間程度のものだったが、Knuthはとても丁寧に私の質問に答えてくれて、編集方針を固めることができた。しかし、私が一番気になっていたのは実は質問の答えではなく、KnuthがTeXをどう発音するかだった。「テック」と言うのか、「テッハ」と言うのか、「テフ」と言うのか、耳をダンボにして必死で聞いていたのだが、なんのことはない、ごく普通に「テック」と発音していて、拍子抜けした。
ここまで、「アスキーがちゃんとテックと発音することを明記しなかったおかげで、テフなんて発音が流布しちゃって困ったね」という話をしてきたわけだけど、2007年7月4日にアスキーから刊行したEric S. Raymondの「The Art of UNIX Programming
」を編集していた際、驚くべき記述に遭遇した。Eric曰く「TeX(テフと発音する。フはうがいをするときのようにガラガラ声でいう)」!!! びっくりして、声も出ない。これには、まいった。海外でもTeXをどう発音するかというのは大きな問題で、Knuthに寄せられる質問でもTeXの発音に関するものがすごく多いという話も聞いている。しかし、Eric S. Raymondだったら、Knuthの発音を聞いたことがあるはずだと思うのだけど、どうなっているのだろう? 英語の発音を日本語で論じること自体、馬鹿げた話なのかもしれないが、ほんとうに悩んだ。悩んで悩んで悩みぬいた末に、下記のような脚注をつけた。
編集部注:著者のRaymondは、TeXを/teH/のように発音すると述べているが、実際の発音はテックである。テフではない。Knuthは明瞭にテックと発音している。
これが正しかったのかどうか、今でも疑問を感じる。どうすればよかったのだろう?
最後にKnuthが2010年にTeX Users Groupで行ったスピーチの動画を貼っておく。ちゃんと「テック」と発音しているのが、わかるはずだ。でも、この動画の後半で「イーテック(チリンチリン)」とやっているのを見ると、TeXの発音に関する話はKnuthのジョークだったんじゃないかと思えてくる。みんなKnuthにからかわれているだけなんじゃないだろうか?